大暑に入って、毎日ひたすら暑いです。
庭の土も、じっとりと湿って重たそうに見えます。梅雨の名残の水分を、真夏の日差しがぐんぐん引き出しているような。
そんなことを考えていたら、暦のことが気になって調べてみました。
もうすぐ七十二候が「土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」に変わるのだそうです。7月28日頃からとのこと。
「土が湿って蒸し暑くなる」という意味なんですね。まさに今の庭そのものだと思いました。
溽暑という言葉
「溽暑(じょくしょ)」という言葉、初めて知りました。
晩夏を表す季語で、和暦の水無月、今でいう7月頃の異称としても使われるのだとか。
梅雨の雨で潤った土が、灼熱の太陽に照らされる。蝉時雨も加わって、蒸し暑さがどんどん募っていく。
言葉ひとつに、これだけの情景が詰まっているのかと、感心してしまいました。
昔の人は、じっとりとまとわりつくこの暑さにも、ちゃんと名前をつけていたんですね。不思議です。
こういう言葉に出会うと、つい他にも似たものがないか調べたくなります。
以前なら本棚から歳時記を引っ張り出すところですが、最近はネットでも調べられるようになりました。便利になったものです。とはいえ、紙の本のほうが落ち着いて読める気がして、結局両方を見比べてしまいます。
土潤溽暑は、大暑という大きな節気の中の、ひとつの候にあたるんですね。暦というのは、こうして細かく分かれているのだと改めて知りました。
お稽古も涼を探す頃
この時期のお稽古は、葉蓋や洗い茶巾など、目にも涼しい点前が並びます。
器も平茶碗に替わって、少しでも涼を感じてもらおうという工夫があちこちにあります。
「夏はいかにも涼しきように」。義母が度々口にしていた言葉です。その時は、なんだ当たり前のことをと生意気に思っていました。
でも今になって、これがどれほど難しいことか、少しずつわかってきた気がします。
暑いからといって涼しい顔をするのではなく、道具や所作の一つひとつに、涼を宿す工夫をする。土が蒸し暑さを溜め込むように、稽古も日々の積み重ねで、少しずつ涼やかさを溜めていくものなのかもしれません。
洗い茶巾は、見た目は涼しげなのに、扱いは意外と難しい点前です。
茶碗に水を張って茶巾を浮かべ、水音を涼として楽しんでもらう。頭ではわかっていても、手が慣れなくて、水をこぼしそうになったことが何度もあります。
お稽古仲間と「毎年この時期になると手が迷う」と笑い合ったこともありました。何年やっても、季節が巡るたびに、初心に戻される点前があるのは不思議なものです。
その仲間も、膝のことを気にかけてくれて、時々様子を聞きに連絡をくれます。以前のようにあちこち動き回れない分、こうして言葉を交わせるだけでもありがたいです。
窓辺で感じる蒸し暑さ
膝の具合が今ひとつなので、長く庭に出ることはできません。
それでも朝夕、短い時間だけ水やりに出ます。土の匂いが、むわっと立ちのぼる瞬間があって、ああ溽暑だなあと、勝手に納得したりしています。
窓を閉めていても、蝉の声だけはよく聞こえてきます。あの声も、蒸し暑さを募らせる音のひとつなんでしょうか。
体は思うように動きませんが、季節の言葉を知ると、目の前の暑さの見え方が少し変わるから面白いです。ただ耐えるだけの時間だったものが、名前を知った途端に、味わうべきものに変わる。そんな気がします。
ただ辛いだけの毎日ではなく、土が潤い、蒸し暑さを募らせながら夏が深まっていく。そう思うと、この暑さも少しは味わい深く感じられます。
次のお稽古では、涼を探す点前に、いつもより丁寧に向き合ってみようと思います。土潤溽暑という言葉も、頭の片隅に置いておこうと思います。

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